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2011年東日本大震災手記(当時のメモ)改めて語る 東日本大震災ドキュメント2

福島第一原発事故発生直後
食糧が全く届かない相馬市、南相馬市
大震災が発生し、
東京電力福島第一原子力発電所の1,2,3号機は全交流電源喪失、
冷却装置注水不能となり、
午後7時3分に原子力緊急事態宣言を出す事故となった。
3月11日、福島第一原発の3㎞圏内に避難指示が出され、
翌12日には20㎞圏内に拡大、
15日には20〜30㎞圏内は屋内退避という指示が出された。
私は、震災直後から被災市町村の災害現場を歩き回り、
被災者の方がいま何を必要としているのかを自分の目と耳で確かめ、
できることは何でもやる覚悟だった。
原発事故翌日、
福島市に南相馬市双葉地方等から多くの住民が避難したが、
あまりにも多い避難者で食糧がなくなった。
何とかしなければ大変だ。
東京に出向いて飲料メーカーや
レトルト企業に食品供給を依頼した。
2000食から5000食を依頼したが、
お金がどうなるかと聞かれた。
「これは激甚災害になるから、国から全部出ます」
と言っても信じてもらえなかった。
現職ではなく落選中だったからだ。
証明として農水省の役人に立ち会ってもらったが歯切れが悪かった。
さらに、官邸の総理秘書官に連絡して何とかしてもらうなど奔走した。
事故後2日目、
避難住民が更に増え食糧の調達に困った。
関東地区の食糧品メーカーの在庫は既に押さえられていたので、
関西地区の食糧品メーカーにまで電話を掛けてお願いした。
しかし、運搬方法がないとのことで、
自衛隊に食糧輸送を要請したが断られた。
限られた状況の中、相馬市で私たちはほぼ毎日炊き出しを行ってきた。
そのうちに自衛隊がおにぎりを出してくれるようになったが、
国からの物資はなかなか届かない状況にかかわらず被災者の皆さんは本当に頑張っていた。
国からの食糧が南相馬市に初めて届いたのは
3月27日に安倍晋三衆議院議員(第90・96・97・98代内閣総理大臣)
が来た時である(後述)。
物資は届いたが配る者がいないとの連絡があり、
被災者捜索をしていた私達が駆けつけ配ったが、
消防団員までには食糧が回らなかったので、
茨城の国会議員の仲間に要請して調達した。
高速道路は緊急通行車両しか通れなかったので、
自分で県庁に行き、通行書をコピーして使った。
被災地には、食糧もガソリンも無かった。
東京から栃木県までのサービスエリアには十分にあったのに、
被災地には届かなかった。これは、対応する人の問題であり、
システムの問題だ。飯舘村の住民は、
避難したくとも燃料がなくて逃げられない。
最後の手段として
菅野村長から供給して欲しい3カ所のガソリンスタンドを
ファクスしてもらい、官邸の秘書官に明日までに届けてくれと依頼した。
すると翌日にはガソリンが届いた。
本当にあの時、福島の情報が流れなかった。
各マスコミ社間で、原発から40㎞圏内に
は入らないという協定を結んでしまい、
その結果として、一切情報が流れなくなった。

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