ある日突然亀岡よしたみ

ドカベンは、偉民だった。―甲子園をわかせた人気者―

 怪物・江川と偉民のバッテリーで勝ちすすむ作新学院に、ファンレターが来るようになった。

 鳴り物入りで入部してきた江川の人気とは別に、偉民は、野球少年一色ではない多面体の持ち味で人気を集めた。

 六千人を越える作新の生徒の中から届けられるファンレターが多かったが、偉民が二年生の時、はじめて、郊外の女の子から手紙が来た。

 ファンレターなど面はかゆくて、ろくに読みもせずにためておくだけだった偉民だが、その手紙だけは、不思議に心ひかれた。

 きれいな詩が書かれていた。「夕映えにはえるあなたの横顔が美しい」というような内容だった。まったく、テレずにいられないが、詩に仕立てた短い表現に、センスが光っている。-どんな女の子かわからないが、葛生という町に住んでいるらしい。あんな田舎にも―といったら、葛生の人たちに申し訳ないが―こんな素敵な感覚を持った人がいるんだ…と偉民は感心した。

 自分のまったく知らないところで、知らない人が自分を見つめていてくれる。想っていてくれてる-と考えると、少年の心は熱くなった。葛生の少女のために「秋の大会は絶対、頑張る」と、心に決めた。

 偉民が、ファンレターに自ら返事を書いたのは、後にも先にも、この葛生の少女への一通だけである。

 広島商行と対戦した、春の甲子園準決勝で、偉民は、まさかの暴投をしてしまう。作新は、惜敗した。

 この日以来、偉民には全国からファンレターが殺到した。そのあとは、一日一〇〇通を越え、一躍スターとなった江川へのファンレターを上回った。「日本人の、判官びいきという心情でしょうね。」と、偉民は当時をふり返って苦笑する。

 ザクザクと到着するファンレターに、偉民は目を通すひまもなかった。代わりに、偉民の母と姉が、たんねんに読んだ。「心から野球を愛している、元気で明るい小学生、中学生、高校生のみ皆さんの手紙がほとんどでした。読んでいる私たちまで、励まされました。」と、母・みき枝は語る。「あとで、お父さんが長く入院することになった時、このファンレターを枕元において、一通一通読み返すのを楽しみにしていたものです…。」

 ずっと後になって、偉民はある女性から「昔、ファンレターを出したら返事をもらってうれしかった。」と、お礼をいわれてびっくりした。返事を書いたおぼえがない。

 せっかく下さったのに…と、母と姉がそっと偉民に代わって返事をだしていたのだった。

 偉民たちの甲子園時代は、劇画ブームのまっただ中にあった。

 熱血野球もので不動の人気を得ていた漫画家、水島新司は、彼の想像力をかき立てるすばらしい素材・偉民を発見する。

 水島は、作新学院が甲子園に出てくるたびに、宿舎を訪ねてきた。偉民は、水島を自分の部屋に招いて、ふたりはいろいろな話をした。江川をさそって、三人で近くの公園に行き、偉民は、水島に江川とキャッチボールをするチャンスを作ってあげた。水島は、少年のように感激しながら、江川と球を投げあった。

 そんなふれあいが、水島新司の中で徐々に結晶し、「ドカベン」が生まれる。キャチャー・ドカベンは、偉民の姿・人そのものであった。あとになって、甲子園でマンガの“ドカベン”に似ていると人気が出た、キャッチャー・香川氏は、プロになった後も“ドカベン”の愛称で親しまれた。

 水島新司のライフワークともいえる「ドカベン」は、全国のファンの熱望に応えて、現在、全巻が再びよみがえった。この本の中に、いまも、少年時代の偉民がいきいきと呼吸している。

水島新司氏との1枚

負けて、チームの心はひとつになった。―作新の黄金時代は終わる―

 関東大会を勝ち抜いて、作新はついに、春の甲子園出場を決める。

 一回戦で当たったのは、三割三分六厘の打率を誇る大阪の北陽高校だった。打の北陽か、投の江川か―下馬評では北陽の勝利が言われていた。

 しかし、江川は一九の三振を奪って、作新は快勝する。

 グランドでの、江川―偉民のバッテリーの練習は、つめかけたファンをうならせた。高校生とは信じ難い球威とテクニック、恵まれた素質。ふたりの投げ合う球は、グランドの端までらくらくと伸びた。

 血のにじむような練習を重ね、人間乾燥機のしごきに耐え、夜はふとんをかぶって勉強しあったふたりの、晴れ舞台だった。

 作新は破竹の勢いで勝ち進み、ベスト4に進出した。準決勝の対戦相手は、名門・広島商業である。

 その日は、あいにくの雨だった。江川はいつになくストライクが入らず、苛ら立っていた。フォアボールが続く。江川にあせりの色が見えはじめる。偉民は、マウンドにかけよって励ます。「気にするな。どんどん投げろ!!」

 こうなったら、敵にとっては盗塁きりない。

 ランナー、一・二塁。じりじりとベースを離れて体勢に入る。偉民は「殺してやる!」と相手の動きをうかがっていた。「偉民、投げるな!」―江川は打たせて取る作戦に出ようとした。

 あせがふたりの心の歯車を、逆向きに回し始めていた。

 勝負は緊迫してきた。バッターがかまえる。

 守備が深くなった。江川がマウンドで呼吸を整えている。-「キャッチャーが暴投しなければいいんですが…」TVの解説者がこう言ったとたん、偉民が渾身の力を込めて投げた。

 三塁めがけて走る敵を刺すべき球は、まさかの暴投だった。-球は恐ろしいほどの勢いでレフトに飛んだ。レフトはカバーに入っていない。

 -一瞬の悪夢だった

 作新は負けた。みなうつむいてポジションを離れる。呆然と立ちつくす偉民に、江川がかけよって、黙って肩をたたいた。-フォアボールに苦しむ江川を励ました偉民は、今度は江川に励まされた。

 -力一杯に戦った。終わった。江川・偉民のバッテリーが輝いた。作新の黄金時代はこうして幕を閉じる。

 優勝には及ばなかったが、この甲子園の試合で、江川は六〇の三振を取り、甲子園新記録を打ち立てた。

 やがて偉民たちは三年の夏を迎えた。

 作新は、甲子園ベスト4進出と江川の並外れた力量ですっかり有名になり、土・日というと招待試合が続いた。基本的な練習に専念するゆとりもないまま、夏の甲子園の予選が始まった。江川は、これまで二年間、奇しくも同じ六月にパーフェクト試合を成し遂げている。彼は三年連続のパーフェクトをねらっていた。

 順調に試合はすすむ。バッターは次々と倒れ、パーフェクトが目の前までやってきた。しかし、江川の一球・カーブ。から振り三振。しかし、ワンバウンド。偉民が拾って投げようとしたとき、一塁手がベースに入っていない。入っていればあっけなくアウトになるところを、ランナーが出てしまった。

 こんな展開は、作新の後にも先にもない、痛恨の一球であった。こうして、江川の三年連続パーフェクトの夢は断たれた。「ひとりぐらいランナーを出した方が緊張がほぐれると思って…」かんじんの時にベースをはなれていた一塁手の“言い訳”だった。

 偉民は、江川の三年連続パーフェクトの夢をこわしたのは、自分だと思った。一塁手と心が通じていないせいだとわかっていた。

 偉民は短気だ。小学校で暴れまわっていたころから、口より先に手が出た。気が短いうえに腕力も強かったから、本人は何気ないことでも、相手には乱暴にとれたのだろう。高校生になってもそれは変わらなかった。内野手と殴り合いのケンカもよくやった。とりわけ、一塁手とは仲が悪かった。-原因はこれだ、チームワークが良くないものが、いい試合ができるはずない…偉民は、自分の短気がたたっていると思った。

 甲子園での惜敗も、チーム全員の気持ちが一つになっていなかったせいだ、そのためにバッテリーも浮いてしまった、と偉民はふり返って思う。

 作新は、夏の予選を当たり前のように楽勝して再び甲子園に行った。

 しかし、チームはどこかさめていた。野球が面白くて楽しくて仕方がない、野球をやれることがうれしくてたまらない―そんなときがあったことが、なんだか昔のことのような…妙に老成したチームになっていた。

 県大会は楽勝しても、作新のひそかな衰退は甲子園ではごまかせない。作新は二回戦で敗れた。

 一回戦は柳川商と当たった。相手は徹底的に江川攻略法を研究してきた。作新は負けてもおかしくないとささやかれていた。が、延長11回でサヨナラ勝ち。二回戦で銚子商との試合になる。

 この日は、強い雨が降っていた。松脂のすべり止めをつけても、雨にぬれて役に立たなかった。柳川商もバスターヒッティングを研究してきた。江川は、打たれた。

 チームは、守って守って、守りぬいた。打たせないで勝つことはできないことを、みんなわかっていた。延長12回、満塁。カウント・ツースリー。あと一球きりない。チーム全員がマウンドに集まった。こんなことは初めてだった。

 江川は困っていた。すっかり追いつめられている。偉民は、江川の肩をたたいて言った。「おまえにまかせる。俺達がここまで来れたのも、おまえのおかげだ。好きな球を投げろ。」

 これまでは、江川で勝ちぬいて来た。江川が投げれば勝てた。いま、その江川がみんなに支えられている。最後はチームの全員の力で試合をしている。-はじめて、チームの心がひとつになった。

 みんながパッとグランドに散った。江川は、最後の一球をかまえた。-江川の手からボールが離れた瞬間、キャッチャーには、それがボールだとわかった。「ああ、終わった。」―偉民は立ち上がった。

 この二回戦は、負けたからこそ、何事もなかったように終わったが、波乱を含んだ試合だった。延長11回裏、ランナーセカンド。そこにライト前を打たれて、ライトはエラー。球を横にそらしてしまった。偉民がパッとサードを見たら、ランナーはボールを見ないで本塁につっこんで来る気配。ベースから三歩離れて待ち構えていた偉民のところに、ランナーがスライディングしてきた。敵のヘルメットをひざで受けて、起き上がってきたところをおさえこんでタッチ。その時、キャッチャーの後にいた審判は、ボールが来た。偉民は「タッチしたぞー」―きわどいプレーだった。この試合は、結果として作新が負けたために、このタッチアウトの一件は不問とされたが、勝っていれば問題となったはずである。

 その日の雨はどんどんひどくなり、ボールもにぎれないような降りとなった。試合を中断してもおかしくない。

 -試合中、役員会が開かれ、中断が検討された。試合中断を決定して、高野連の佐伯会長がそれを伝えに出てきたとき、江川はすでに、最後の一球を投げるところだった。

 中断の決定がもう少し早ければ、試合はもっと変わっていたはずだ。作新の勝利もあり得た。-あとで佐伯会長は、江川と偉民に、役員会の決断のタイミングをわびている。

 こうして、作新は、甲子園の二回戦で敗退した。作新の黄金時代は終わっていた。しかし、このときにして初めて、チーム全員の心がひとつになった。忘れられない大会になった。

―オールジャパンと大学進学―

 昭和48年。甲子園の後に、オールジャパンの高校選抜が行われた。ベスト8から優秀な選手が選ばれるのが常だが、このメンバーに偉民と江川のバッテリーが選ばれた。異例中の異例である。

 オールジャパンは、ハワイとの対戦が予定されていたが、折しも日韓問題が持ち上がっており、両国に険悪なムードが高まっていた。政治的配慮から、対戦は急きょ韓国ということになった。

 オールジャパンの監督には、夏の甲子園優勝校、広島商業―偉民が痛恨の暴投をした相手である―の伯田監督が決まった。

 伯田監督は、偉民に言った。「君たちは、あの時、負けるべくして負けた。俺たちは冬の間中、江川を倒すことだけを目標にやってきたんだ。」

 -広島商は、過酷ともいえる練習を重ねていた。基本練習に加えて、日本刀の上を歩く・振りを日本刀でやる・ろうそく一本を立てて、火が消えるまでシャドウピッチングをする―といった、厳しい精神鍛錬もやってきていた。

 偉民は、ひそかな、しかし激しい衝撃を覚えた。-作新との違いはここだったんだ。頂点となって追われる者と追い上げる者との差はここにあったんだ…。追ってくるも者の、鬼気迫る執念とエネルギーに、偉民は目のうろこをはがされるような思いがした。

 伯田監督が、その後の偉民の野球人生を変えたといっても過言ではない。

 オールジャパンのメンバーは、さすがに日本の高校野球の一流選手ばかりのチームだけあって、偉民でさえ感心した。すごいやつらがいた。韓国との試合で、彼らのパワーは炸裂した。静岡高校の白鳥の打球は、バックスクリーンをコエテ飛んでいった。おそろしい強打者である。

 白鳥の打球を目のあたりにして、韓国の観衆は一瞬、静まりかえった。-が、次の瞬間、群衆がドガっとグランドになだれ込んできた。韓国の劣勢にエキサイトしている。真黒になった人の塊が叫びながら押しよせてくる。選手は、帽子やバットを取るのもっとで命からがら逃げ出した。警官がベンチに走ってきて、選手のバットを貸せ!と怒鳴っている。何をするのかと思ったら、警官はそのバットで、暴徒と化しつつある観客を片っぱしからなぐり倒した。-偉民たちはこの光景に驚いたが、そうでもしなければ治まらない騒ぎ、というより暴動だった。

 日本と韓国の違いにショックを受けた偉民を、さらに不気味がらせたのは、ソウルのマスゲームだった。

 スタンドを埋め尽くした大群衆が、一糸乱れぬ一文字を作る。-これはいったい、生きた人間なんだろうか。心や体温などというものがあるんだろうか―次々と正確なバリエーションを見せる人文字を前に、偉民はいいしれぬ恐怖と嫌悪を覚えた。

 夜になると、選手たちは、普通の少年たちにもどった。

 ホテルの窓をあけて、向い側のホテルの部屋の様子をうかがった。「お、みえるぞ!」「わぁ~」「おい、俺にもみせろよ」―声をひそめながら、大きな体で、窓辺にひしめきあっている。コン、コン、と誰かがノックしている。いいとこなのに…。

 コンコン。「うるせーなっ」ふり返ったら、監督が立っていた。みんなもれなく監督の鉄拳をもらった。

 韓国から帰りついてすぐ、みんなは寿司を食べたかった。育ち盛り・食い盛りとはいえ、連日の焼肉には、みんなうんざりしていた。

 日本の寿司はうまいこと!みんな大満足だったが、その夜のうちに次々と高熱を出して倒れ、腹痛に苦しんで、大阪の中沢野球記念会館の宿舎は、野戦病院と化した。食中毒だった。十人が寝こみ、二・三人は一週間も入院した。偉民も寝込んだ。

 春の甲子園に出場したとき、偉民たちが泊まったホテル芦屋の池田恒雅社長は、野球をこよなく愛する人で、よく選手の面倒を見てくれていたが、この食中毒騒ぎのときも、すぐかけつけてくれて、苦しむ少年たちと荷物をホテル芦屋に引きとってくれた。

 みんなはここで三日寝込んで、ようやくそれぞれの帰途についた。

 この食中毒騒ぎの中で、ひとり江川は何でもなかった。なんて頑丈なやつだ、と思ったら、彼ははじめから警戒して寿司を食べなかったという。食いたい一心だけで食いまくって痛い目にあった偉民は、江川は慎重さに感心したり、半ばあきれたりした。

 

 オールジャパンが終わると、いよいよ大学入試が待っている。

 偉民は、早稲田と決めていた。小学生の頃早慶戦を見て感激して以来の、憧れの早稲田である。江川は、オールジャパンの仲間である植松(のち阪神)・長島といっしょに、慶応を選んだ。

 江川たち三人は、ホテルで受験のために合宿した。スポーツ紙が、こぞってこの合宿を取り上げた。「江川受験合宿」の記事を見ながら、「たいしたもんだなぁ…」と感心したから、偉民はひとり黙々と早稲田をめざして勉強した。

 三月。偉民は望み通り早稲田大学教育学部に合格した。野球の実績とは全く関係なく、学力試験で勝ちとったうれしい合格だった。

 一方早稲田大学野球部の石井総監督は、江川獲得に動いた。総監督の入学要請に対して、」江川の父は「早稲田に入学させるという証文を書いてほしい」と条件を出して、相手を怒らせた。石井総監督は、それ以降、「作新学院からの推薦は取るな」と態度を硬化させている。当時は、学生運動のまっただ中だった。慶応を希望しているスター選手・江川を入学させるに際しては「彼の成績は公表せよ」と学生達は学校当局に迫った。-江川は結局、法政大学に入学した。

 首尾よく早稲田に合格したが、偉民自身は薄氷を踏む思いだった。

 野球にあけくれていたから、勉強は間に合わない。三年の後半は、悠長に学校の授業に出ている場合ではない。自宅学習を決めこんで、出席日数が限度になるまで学校に行かず勉強した。近所の医大生に英語を教わったが、「もう何も間に合わないから、傾向と対策をやるきりない」という指導のもと、バカだのチョンだとののしられた。偉民はカタナシだった。これまでの野球部のどんなしごきより、監督や先輩のどんな鉄拳よりこたえた。こんなにケチョンケチョンにいわれたことは初めてだった。

 -それでも、志望校に合格できたんだから、まあいいか、と思い直す偉民だったが、いまもふと、古い心の傷がかすかに痛むことがある。

 

やっぱり、ただの高校球児ではなかった。―ちょっとプロフィール―

 ホテル芦屋・社長 池田恒雅氏

 私のところは、親の代から大の野球好きで、甲子園大会の宿舎として、数え切れないほどの高校球児のお世話をしてきました。私の子供時代から数えて八回、優勝旗を送り出していますが、その中の二回は、史上初の春夏連覇を成しとげた作新学院のものです。

 亀岡偉民さんに初めて会ったのは、やはり甲子園出場で、作新学院チームがホテル芦屋に泊まったときのことです。当時、すっかり有名になっていましたが、亀岡さんは江川より目立つ長身の美少年でした。ユニホーム以外の服も素敵に似合い、甲子園ギャルの人気は江川を上回って、大変なものでした。

 亀岡さんは、他の野球少年とは違う何かを持っていました。宿舎に帰ってくると、少年たちの話題といえば、ここでこう投げた、2回表でどうだったと、野球の話ばかりですが、亀岡さんとは野球の話を一度もしたことがありません。いつも大人と対等に話の出来る人でした。

 春の甲子園でベスト4まで残りながら、非運の暴投で負けてしまった時、きっぱり自分の責任だと亀岡さんは言い切りました。ミスが重なっての結果であり、野球はチームプレーなのに、自分のプレー上の責任であり、責めは自分が負うと。-高校生は、責任を転嫁したがるものです。他の人ならあの時、カバーに入っていてくれさえせれば…・と言ったでしょう。

 こういう亀岡さんを知るほど、私は、彼が普通の野球少年ではないことを感じとっていきました。非常に古風な面を持ち、彼の野球そのもののように、細心にして大胆で、高校球児ではなく、人間として自分をとらえさせる魅力をもっていました。この時から私は、亀岡さんは野球そのものが人生ではないのではないか、他にとりくむ仕事があるのだろうと予感したのです。

 亀岡さんが早大に進んだ後は、帰省先を私の所にして、お正月は息子のように必ず帰ってきてくれました。親しい長いおつきあいをした四半世紀にもなりますが、いつも歯がゆく思い、同時に頭が下がることは、亀岡さんが、一心に他のたまに生きていることです。

 たとえ、早大の助監督にと要請があった時、亀岡高夫先生の跡を継いだ方が得とみんなにすすめられたのに、当時指導者がいなくて困っていた早稲田に行きました。理由は「お世話になったから」―そのまま居れば監督になれるのにもったいない、という周囲の声も聞かず、次の指導者を作って黙って去ってしまいました。

 阪神大震災の時もそうでした。国会議員など誰も来ず、当時の村山首相もヘリコプターで来て二、三十分顔を出しただけでした。しかし、亀岡さんは、震災が起きた日から活動し、五日目には福島からトラックで乗りつけて、神戸市東灘小学校にトラックいっぱいの救援物資を置いていきました。匿名で…。

 亀岡さんは、いつも縁の下の力持ちです。ひとのためにプラスになることばかり考えて、自分のためにプラスになることがない。普通なら、自分のしたことを得意になって吹聴したがるところですが…。亀岡偉民といえば、「エネルギッシュでいつも元気な人」という一面的なとらえ方をされているのが残念でなりません。

 亀岡さんは、スポーツだけでなく、教育、文化にも幅広い能力を巾広い能力を持つ人です。古い因習や慣例にこだわらずものごとを行える人です。もし、亀岡さんが国会議員であったなら、阪神大震災の現地に真先にかけつけ、持ち前の行動力とリーダーシップで、どれほどの救援体制を組織し、犠牲と被害を最小限にくい止める努力をしてくれたことでしょう。

 亀岡さんを国政に送り出せば、国会の古い因習は必ず破られるはずです。いまこそ、リーダーシップが要求される時代―平成維新という言葉があるとすれば、彼こそ維新のメンバーに数えられるひとりです。日本の将来は、亀岡さんのような人に託してこそ、拓けていくものと信じています。

 平成八年一月十五日、神戸・常光院で、阪神大震災で亡くなった方々のための法要が一つ、行われました。大きな御地蔵様が一体。そのまわりを小さなお地蔵さんがとり囲み、そのお地蔵さんたちには、故人の名前と享年が書かれてありました。宗教も宗派も違う人たちの魂が安らかであるようにと、亀岡さんが考えてくれたご供養のかたちです。

 いつもひとを思い、ひとのために生きることを貫ける亀岡さんの、やさしさと力が日本のために存分に発揮される時が来ることを、心から待ち望んでいます。

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