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2011年東日本大震災手記(当時のメモ)改めて語る 東日本大震災ドキュメント9

一人でも多くの方をご家族の元へ届けたい
消防団と一緒になった捜索

私は、幾度も、地元の消防団や警察の方々とともに、
一人でも多くの方を早く家族や
親族の元に返してあげたい、
その一心で南相馬市での捜索活動に当たった。
南相馬市では、
3月12日に出された福島第一原子力発電所事故に伴う
避難指示のため、
自衛隊、そして県警も引き揚げてしまった。
ほとんどの者が避難する中で、
一人の市議会議員が残り、
竹棒を持って被災者の捜索をしていた。
私は周りの人に声をかけて10人程度で被災者の捜索を行った。
それを見て、消防団が加わった。
道路も通れない状況だったが、
消防団員が機材を持ってきて作業に当たった。
顔や手がない遺体、
コンクリートに張り付いた遺体が…。
現場は過酷である。
ストレスで病気になった人も多い。
私自身、頑健だと思っていた胃と腸が痛んだ。
収容したご遺体は学校の体育館等に運んだが、
すぐいっぱいになった。
そしてある閉鎖中の工場に運んだが、
家族が避難しており、
引き取り作業の確認ができずに
放置されたままになった。
日々腐乱が進む。
やむを得ず、荼毘に付す。
識別できないご遺体は、
番号を付けて管理された。
犠牲者の識別のために、
後々、手掛かりになるから着ていた
洋服を水できれいに洗う。
その作業を消防団が行い、
徐々に県警、自衛隊と引き継いでいったが、
途中、逃げ出したり精神的な病気になった人も多くいると聞いた。
瓦礫の撤去のための重機を
地元の建設会社から集めたが、
免許を持ったオペレーターは誰もいなかった。
地元の消防団員がやむを得ず、
超法規的に操作したこともあった。
原発から30㎞圏内は屋内退避指示が出ており、
南相馬市の一部区域は立ち入りできないとされたが、
線量計で測ると福島市の1/5程度であった。
我々は、被災者の捜索を行った。
緊急事態の際、
現場の判断が最も重要である。
現状を判断し、
どこに連絡するか知っている人が
たくさんいれば、
失われた何人かの命は助かっていたかもしれない。
大規模災害では、
予想できないようなことが起こる。
平時の縦割り意識や、
自分の任務の範囲内でしか動けないというのでは、
全く立ちゆかなくなる。
現場で動ける人材を育成することが肝要である。
「動ける人材」とは、いち早くに判断し対応できる人のことだ。
時には、ルールや基準があったとしても、
必要と判断すれば、
それらを無視しても躊躇なく対応できる人材が必要だ。

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